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2018.10.28
硬式野球

[硬式野球]ドラフト指名直後特別企画!~圭太と祖父母で振り返る22年間~

 東洋大から先日の新人選手選択指名会議で中川(法4=PL学園)・梅津(営4=仙台育英)・甲斐野(営4=東洋大姫路)・上茶谷(法4=京都学園)4選手が指名を受けた。今回はスポトウの担当記者がそれぞれの形で担当選手を描く。最終日は横浜オリックスバファローズからドラフト7位指名を受けた中川圭太主将。

 

 中川選手を3年間取材させて頂きました、硬式野球部担当3年の永田です。ドラフト会議のつい2週間前ほど、中川選手の祖父母である幸恵(ゆきえ)さん、茂之(しげゆき)さんに大阪府阪南市のご自宅にて取材をさせて頂きました。

 

 さっそく玄関には、「あの子が帰ってきたとき張り合いがあるかなと思って」と、中川選手の写真がずらり。とても愛が感じられました。東洋大の試合は、近所に住む親戚と一緒にライブ配信で全試合欠かさずチェックしているのだという。スコアもつけているため他の選手の名前もバッチリ!午前中から行われるときは、みんなでお昼ごはんを食べながら。午後からのときは、おかしを食べながら。「圭太のおかげでみんなと仲良くできるんですよ」(幸恵さん)。

 

 というわけで、中川選手オリックスバファローズ7位指名を記念しまして、お二人から伺ったお話と選手本人から聞いたお話をあわせまして、ちょっとおもしろく中川選手の22年間を振り返っていきたいと思います!

 

【愛犬と一緒にすくすく成長した幼少期】

 

 大阪府生まれ。今では180㌢75㌔と長身ですらっとした体型だが、祖母の幸恵さん曰く、幼少期はぽっちゃりしていたのだという。同じ年に生まれた愛犬のリーチと一緒にすくすくと順調に成長した。ちなみにリーチはパグの女の子。リーチのお母さんの名前はロンといい、中川の叔父である保(たもつ)さんが麻雀好きではないのだが、そう名付けたそうだ。

 


 

 野球を始めた正確な年齢はわからない。「お父さんが草野球をしていて、そこに行くといつもチームの人がキャッチボールをしてくれました」。父親が野球をしていた影響で、幼少期から常に中川のそばには野球があった。家の向の駐車場で、おじいちゃんとおもちゃのバットとボールで野球をしたことが、これまでの野球人生の中で一番楽しかった思い出だという。

 

【野球にぞっこんの小学期】

 

 サッカーやバスケなどの他のスポーツには全く興味を示さず、小学校へ入学後すぐに「尾崎ボーイズ」に入団。本格的に野球を始めた。今では二塁手として活躍をみせる中川だが、父・太一さんがボーイズの監督をしていた頃に、一度だけ投手を経験したことがあるという。だが、ボールがストライクゾーンに入らず父に怒られたそう。「あんなに怒られたら余計に入らなくなるわな」と幸恵さんも笑いながら、孫の幼少期を懐かしんだ。

 

 実は小学生の頃、中川は野球のほかに短い期間ではあるが習っていたスポーツがある。それは水泳だ。始めた理由は単純に泳げなかったから。「泳げるようになりたいなって思って、それまでは全く泳がれへんかったんですけど、一応選手コースまでいって、もうタイムだるいわって思って辞めました」。ちなみに水泳を習っていたことは野球に生きてないとのこと。強いて言うなら「ちょっと肩幅広いくらいですかね、みんなに言われるんですよ」と笑った。

 

【自信がついた中学期】

 

 当初は中学も軟式野球を続けるつもりだった。だが、「同じ市にすごい子たちが泉佐野シニアに行くと言っていたので、そいつらと一緒に野球をやりたいなと思った」ことがきっかけで、泉佐野シニアに入ることに決めた。「中学校に入ってから全然楽しかった思い出は無い」と中川は当時を振り返ったが、「色んな関西の強い相手とも対戦したり、全国大会へ出場したり。そこで結果を残すことができて、自信がつきました」。関西のシニア選抜とボーイズ選抜の試合では本人曰く「たまたま打っただけ(笑)」だそうだが、中学生ながら京セラドームで本塁打も放ち中学生離れした才能も見せた。中学3年時には第15AA世界野球選手権に田嶋大樹(現・オリックス)らと日本代表として出場し、第3位入賞に貢献もした。「自分がシニアへ入るきっかけとなった人たちがいなかったら、今の自分はいません」。

 


 

PL学園で過ごした激動の高校期】

 

 名の知れた強豪校から入部の誘いを受ける中、進学先に決めたのは春夏の甲子園で計7度の優勝を誇る「PL学園」。理由を尋ねると、「中学3年のときに見に行ったら1回戦コールド負けで…正直これなら出られるやろって思いましたね(笑)中学の時のシニアの監督もPL学園出身で、『お前が行って強くしてきたれよ』って言われて、それで決めました」と、冗談を交えながらも答えてくれた。

 

 早くも1年秋からレギュラーを獲得すると、出場5試合で4本塁打、14打点を挙げ注目を集める存在となった。そんな矢先、部内での不祥事が発覚。6か月の対外試合禁止が命じられ当時の監督は辞任、翌夏の大会にも出場できなくなった。「想像もしていなかった。監督がいない状態でプレーすることに不安もあった」と当時を振り返る。それでも「やるしかない」。何度も話し合いを重ね、新チーム発足時には部員全員の投票で主将に任命された。作戦を全て考え、指示も自分たちで出し合う。監督不在の中で、選手の交代など試合中の判断は中川が行った。打っては4番として打線をけん引。これまで経験のしたことのないことの連続だったが、必死にプレーし続けた。

 

 高校最後、そして中川にとって最初で最後の夏季大会。仲間たちと考え抜いた「1点を積み重ね、守る野球」を実践し、大阪府予選決勝まで駒を進める。そして決勝の相手は、その夏全国制覇することとなる「大阪桐蔭」。当時を中川はこう振り返った。「正直、甲子園に行けると思って臨んだ試合だった。だけど負けてしまって。レベルの差というか、そういうのを全部感じて――。高校卒業して、上に行って、こいつらに負けんとこっていう気持ちが生まれた。大学合わせて一番悔しかった試合ですね」。

 


(写真提供:ホームラン)

 

 夏が終わり、卒業後の進路はプロ一本。「社会人野球の誘いも全部断っていて、落ちたら落ちたときに考えようと思っていた」。だが、ドラフト会議で中川の名は呼ばれなかった。進路に迷う中、思い出したのはPL学園の1学年上で東洋大へ進学していた宝楽(現・セガサミー)との電話の内容。「先輩がいるっていうのは大きかったし、『ちゃんと野球をするならいい道じゃない』という風に言われて。電話などで東洋のこと聞かなかったらここにはきてなかったと思う」。

 

 ちなみに、先輩からの説教よりも高校時代一番きつかったことは「食トレ」だったそうです。

 

【いつもチームの中心にいた大学期】

 

 高校を卒業し、迎えた春。中川の一番の売りである打撃力を買われ、オープン戦の初戦にさっそく4番で起用されると5打数4安打の固め打ちで周囲を驚かせた。その後も毎試合中軸を任され、全16試合に指名打者として先発出場。気づけば打率は4割を超えていた。高橋前監督も当時「こんなに良いとは思わなかった。モノが違う」と大絶賛。1年春から公式戦へ出場し、リーグ3連覇、4年次には常勝軍団の主将に就任。時の流れは早く、中川も1023日の亜大1回戦をもって大学野球人生を終えた。「ずっと1年から出させていただいて、打てない時も我慢して使ってくださった監督さんであったり、指導してくださった方に本当に感謝してます」。そして、苦しいことも一緒に乗り越えてきた仲間へ「自分がキャプテンになって、チームのためにほとんど何もできなかったと思うんですけど、本当にみんなにはついてきてくれてありがとうっていう気持ちだけです」と語った。

 

(中川選手の大学時代の活躍を知りたい方は、ぜひ過去のWEB記事をチェックしてね!)。

 

 話しは変わるが、試合後には、大勢のファンからサインや写真撮影を求められることもある。疲れていても嫌な顔一つしない。幸恵さん、茂之さんが神宮球場へ応援に行き、初めて孫にサインを求める列を見たときには「え、圭太になんでサイン求めるん(笑)」と驚いたそうです。

 

 3年間追い続けてきた私としては、まだまだ書きたりませんが、これくらいにしておきます。稚拙な文章ですが、少しでも中川選手のことを好きになって、次のステージでの活躍を楽しみにしてくれると幸いです。最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。

 

■あとがき

 幸恵さんと中川選手の間では、プロに入って契約金をもらったら「またパグを飼おうね」という話になっているという。取材中、名前をどうするかの話になったが誰も麻雀に詳しくなかったので決まらず。なので後日、ネットで調べました。そして私からは、「ポン」という名前を提案させていただきます。お忙しい中時間を作ってくださった、幸恵さん、茂之さん、本当にありがとうございました。次はぜひ、中川選手のユニフォームを着て、京セラドームでお会いできることを楽しみにしています!




(執筆者・東洋大学スポーツ新聞編集部・   永田育美)