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先日行われた第91回日本学生氷上競技選手権大会(以下、インカレ)では2年連続で決勝へ進出。最後は明大に敗れ悲願の優勝とはなりませんでしたが、全力を出し切った4年生の表情に後悔はありませんでした。そんな選手たちが最後の試合を終えてに口にしたのは、ここまで支え続けてくれたスタッフ、そしてご両親への感謝の言葉。そこで、選手たちを献身的にサポートしてきたスタッフ、北海道苫小牧市でのインカレに応援に駆け付けた親御さん、選手たちの活躍を見守ってきたみなさんにコメントをいただきました。4年生プレーヤーの感謝の思いを受けて、ここではそんな選手たちを支え続けた周囲の方々のコメントを紹介します。
4年生と応援に駆け付けた保護者の皆さん
〈親御さん〉
・古川誠ママ
(息子さんのエピソード)ホッケーとはあまり関係ないけど、幼稚園の頃から一つのことをすごく頑張る子で。何でもできるまで自分が納得するまでやる子でした。(これまでどういう気持ちで見守ってきたか)小さい頃はけがしないようにとか思いながら試合は見守っていました。大学に入った頃は楽しくやってもらえればなと思っていましたが、けがが一番心配で。親元を離れてけがするのが一番心配でした。(成長を感じたことは)1年1年、親元を離れてから大人になっていくのはすごく会うたびに見れたかなって。(インカレでの活躍を見て)1試合1試合必死に戦う姿を見れて、仲間と楽しみながら終われたらいいと思いながら見ていました。今回のインカレで少しは成長した姿を見ることができたかな。良き仲間に巡り合えたことに感謝。4年間楽しませてくれてありがとう。お疲れ様!
・古川駿ママ
大学4年間はあっという間で、応援すること、見守ること、祈ること、母親としてはこれしかできませんでした。本人にはつらい時期があったと思います。口には出しませんでしたがそこを乗り越えて今このインカレを迎えたと思います。最高のステージに立てたことに感謝しかないと思います。素晴らしい仲間と出会うことができ幸せだと思います。選手の皆さん、親御さんには感謝しかありません。(息子さんへメッセージ)小学1年から16年、お疲れさまでした。これで一区切り。これからは次のステージです。仲間を大切にして傲ることなく謙虚に、けがなく活躍することを楽しみにしています。ホッケーを始めて2ヶ月頃に、まだまともに滑れないのに「しゅん、キーパーやりたい」、「しゅんが全部止めて勝ちたい」と言われたことを思い出します。そんな気持ちでずっとがんばってきたのかな。
・坂元ママ
(4年間を振り返って)総監督、監督、コーチ、スタッフの方々、良きチームメートに恵まれましたことに感謝でいっぱいです。(インカレでの活躍を見守って)頼もしく、ハラハラしながらも安心して観戦することができました。「2位じゃだめなんだよ。みんな優勝を目標に厳しい練習をしていたんだよ」。そんな息子の言葉に涙しました。(息子さんへメッセージ)皆さんに支えていただき、楽しく幸せな4年間でしたね。お疲れ様でした。
・佐藤ママ
(息子さんへメッセージ)よく頑張っていたと思います。本当にいい同期に恵まれて。普段から連絡とかはしないんですけど、よくやっていたんじゃないかなと。親元を離れて、きっと学業とホッケーと頑張っていたんじゃないかと思います。東京に進学してくれたので、応援のたびに東京を楽しむことができました。(4年間どんな気持ちで見守っていたか)ホッケーの面ではとにかくけががないようにと。けがなくやってほしいと思っていました。1年生のときにヘルニア腰痛で試合に出られないこともあったんですけど、よく頑張っていました。(インカレでの姿を見守って)本当にこれで最後なので頑張ってほしいという思いだけでした。(大学での成長)特に変わらないんじゃないかなと思います。いつもポーカーフェイスなので。(ホッケーを始めたのは)幼稚園の頃で、最初は自分の意志でやっていたわけではないと思うんです。だけどだんだん離れられないスポーツになっていったんじゃないかなと思います。
・佐藤パパ
(息子さんに関するエピソード)1年生の夏に腰の手術をした時、サポートのすごさと、インカレには絶対に間に合わせますと言ってくれた内山さんの言葉が嬉しかったです。(4年間どのような気持ちで見守っていたか)大学生活や仲間を大切にしてほしいと思っていました。(インカレでの活躍を見て)今の仲間での最後の大会、悔いのないようにと思っていました。(息子さんへのメッセージ)4年間楽しませてくれてありがとう。
・渡邉ママ
(息子さんのエピソード)ホッケーを始めたのは小学校2年生の終わり。あの子は小学生のときにホッケーをやりたくて、大人の防具しかかなったんだけど、それでもやりたくってそれを着けてやっていて。「デカパン先生」ってみんなから呼ばれながらも、ホッケーをやりたい一心で子供のときはやっていました。たぶんアイスバックスの寺尾勇利くんが「デカパン先生」っていうあだ名を付けたと思います。(4年間見守ってきて)ホッケーのためなら努力を惜しまない子だったから、自分の好きなことに一生懸命取り組んでほしいなと思っていました。大学に入ってからはけががすごく心配だった。けがをしないで好きなことに取り組んでもらえたらいいなと思っていた。(インカレでの活躍を見て)頼もしいです。本当に自慢の息子です。(H.C.栃木日光アイスバックスへ入団するが)自分の好きなことをできるから頑張ってくれると思います。
・阿部ママ
(大学4年間どんな気持ちで見守ってきたか)ホッケーだけでなくて、学校の勉強も併用し、すべてにおいて全力でするように、手抜きは絶対にしないようにということだけは思っていました。(息子さんのエピソード)小さいときは女の子よりも体が小さいくらいだったんです。まあ今も小さいんですけど(笑)。とにかく元気だけはありました。常にいつも動いていて、魁は止まったら死んじゃうマグロだねってずっと言われていました(笑)。6歳上に兄がいて、次男だからなのかわからないのですが、性格がすごく頑固で言うことを聞かなくて悪ガキっていうのはありました。ホッケーは3歳になる前くらい、立てるようになってすぐに始めました。兄もやっていたし、従兄弟もみんなやっていて、帯広は小学校と中学校は外にリンクがあるので、放し飼い状態でスケートを履かせて好きに遊ばせる感じで、自然と兄の練習について行って始めた感じでした。(息子さんへメッセージ)魁自身も高校生の頃はそれほど自分が大学に行けるなんて思ってもいなかったことなので貴人さん(鈴木監督)に会えたこともあったというか、高校2年生くらいのときに大学に行きたいんだったら行ってもいいんだよと、後悔だけはしないように考えたらとずっと言っていました。チャレンジすることだけは親としては私も主人も全然応援するというか、反対はしないのでそれだけは言ってきました。
・出口ママ
(息子さんのエピソード)小さいときからよく王子戦を見に行っていたのですが、必ず練習から見ないと気が済まなく、選手みんなの防具はどこのメーカーを使っているとか分かっているのを家族で驚いたことがありました。(4年間どんな気持ちで見守っていたか)高校のときはけがばかりでつらい思いをしてきたのでけがをせず、大好きなホッケーができればいいなあと願っていました。(インカレでの活躍を見て)最後まで気持ちが入っていたのはとても感じていたし、チームみんなで必死に頑張っている姿は最高でした。(息子さんへメッセージ)この4年間本当にいい仲間と出会えて大好きなホッケーができたこと、みんなに感謝ですね。小さいときからの夢がかなって良かったね!子供が憧れるような選手になれればいいね!
・柴田ママ
(インカレの姿を見守って)優勝することだけをと思って。頑張ってもらうしかない。アイスホッケーに真面目にできることだけが取り柄だったから。最後まであきらめないで頑張ってほしいと思っていました。お兄ちゃんと同じ大学に入学して、お兄ちゃんはできなかった優勝をしてほしいなって。インカレは4年間最後だなって思いながら見守っていました。頑張れとしか考えられなかったです。(柴田選手はリーグ戦中にけがもあったが)手術したから手術に立ち会ってとか、連絡は取りました。すごく早い復帰で、最後の試合に完全に出られてよかったなと思います。(息子さんにメッセージ)10人と多い人数だったけどみんな仲良くできて良かったね。4年間ありがとう。
・坂本ママ
(息子さんとのエピソード)父がもともと日大のアイスホッケー部出身で、今も現役で中学校のコーチをしているんですけど、小さいときからやっぱり息子と父親同士で一生懸命練習してきて。私もフィギュアスケートをずっとしていたので自分も氷の上に立つことはあったんですが、やっぱり父子の関係に入り込めないところもあって。父と子が目標を一つにして小さいときからずっと頑張ってこれたことは、母として入り込めなくてすごく羨ましいなってずっと思っていました。早大の坂本之麿と従兄弟でずっと同じ生活をしてきて、小学校6年生から中学校時代まで明大の松本昂大も同じ部屋で寝泊まりして育ったので、最後にトップディビジョンで3人が氷上に立てたことはとても幸せなことだなと思っています。(けがの間はどういう気持ちで見守ってきたか)本人が一番悔しいと思います。でもサマー大会と秋リーグで復活できたことは、私も渓太も奇跡的なことだなと思っています。やっぱりそれはスタッフとトレーナーの方々に氷上に戻してもらったということなので、けがをしたことよりも復帰できたことのほうが大きかったです。本当にけがばかりに悩まされてきたんですけど、それとともに心のほうが成長したなって。試合に出れない人の痛みとか、サポートしてくれる人たちへの感謝とかそういうのを渓太がすごく分かって、逆にチームメートをサポートしようっていう側にまわって一生懸命献身的にやってきたのは親としても褒めたいと思います。(インカレでの2ゴールについて)ラストゴールは、いつも仲良しのメンバーで一番つらいときを支えてくれたのが柴田だったので、阿部→柴田→渓太へとつないでくれたゴールは、渓太にとって心からうれしいゴールだったと思います。けがでつらいときのほうが多かった4年間を振り返ると、どんなときも泣き言を言うことなく、明るく前を向いて努力してきた子だったので…。そのひたむきさは親としても褒めてあげたいです。リハビリ中、ウエイトを熱心にやり過ぎて、上半身がムキムキになりすぎて、着る服がない…と言われて買わなきゃならないのが困りました(笑)。1シフトだけでも氷上に立ちたい、最後にユニフォームを着たいという願いをスタッフやチームメートがかなえてくれたことに感謝しています。私のためにも渓太はそうしたかったのだと思いました。(息子さんへメッセージ)言葉は何もかけてないしたぶん恥ずかしくて聞かないと思うんですけど(笑)。とりあえず社会人になってからも実業団でやる予定ではいるんですけど、一応18年間くらいの一区切りとして、得点うんぬんとかではなくてやっぱり楽しませてくれてありがとう。いろんな人たちにも出会えたし、渓太のいろんな仲間の子たちにも出会えて本当にいろんなところに応援しに行って出会いがたくさんあったので、お疲れ様というよりもありがとう。ずっと一緒に突っ走ってきた感じなので、ありがとうと伝えたいです。
・笹川ママ
やはり強豪校に入ったということでなかなか思ったように試合に出られなくて、それが本人には一番つらいことだと思う。本人は頑張って練習も腐らずにやっていたと思うんですけど、それは親としてはかわいそうだなと思いながら、ただそのいろんな思いをしたことをこれから社会に出て、バネにしてやってくれたらと願っています。今回も最後に悔しい思いをしていると思うから、それだけが親としたらかわいそうかなと。ここにきて最後っていうところでね。ただ本当にいい子に育ってくれて、優しい子に育ってくれて16年間ホッケー続けて頑張ってくれて、太平には親として感謝しています。(インカレ初戦での姿を見て)久しぶりにゴールする姿を見れて、良かったのといい仲間に恵まれて同期も本当になかいいし、ああやって4年生のセットでゴールを決めさせてもらって本当にうれしかった。(息子さんへメッセージ)いい子に育ってくれて優しい子に育ってくれて16年間ホッケーを続けてくれて、本人はいろんな思いをしたと思うけど、太平が自分の子で良かったって感謝しています。
〈スタッフ〉
・鈴木監督
(4年生との4年間を振り返って)彼らの年代が私が監督になって初めてスカウトした年代。もちろんどの年代にも思い入れはあるが、すごく思い入れが強かった。何とか彼らを優勝させたいという思いは強かったけれど、そこをかなえさせてあげられなくてすごく残念に思う。本当にチームのために4年間努力してくれたことに感謝しています。(4年生との思い出は)たくさんあります。高校時代のスカウトのときから顔を見ている選手なので、色々な思い出がたくさんある年代です。(4年生全員が誰一人欠けることなく最後までやってこれたことについては)本当に本人たちの努力だと思います。あとは、10人と他の学年より人数が多い学年でしたが一人ではなく助け合ってきたからこそここまでこれたのではないかと思います。
・山口コーチ
(どのような気持ちで見守ってきたか)そうですね。僕は選手と近い立場なので息子の様に可愛がっていたんですけれど、やっぱり厳しさもないと今の子たちは締まらないですし、飴と鞭を使い分けながらうまく付き合ってやっていました。思えば1年生からずっと見ていたけれど、成長したけどまだまだ足りないところがあるので、これから社会出るうえでまた一皮成長してほしいなと思います。(4年生との思い出は)思い出というか寮とか一緒に合宿中にバーベキューやったり色々話し合ったり。もうあんまり距離が近くなっちゃうと情が移り過ぎて厳しさが薄れちゃうから。あんまり僕たちも一緒にお酒とか飲まないようにして、気を付けていましたね。(4年生に向けてメッセージ)ここからプロに行く選手もいますし、社会に出る選手もいる。ここから大学以上に厳しい世界になるので。プロだったら自分の動きお金が左右されることも。自分磨きをしてここで培ったものを生かしてほしいな。社会に出る選手も東洋大で培った厳しさや、体育会系の中で学んだことはたくさんあると思うのでそれを生かして頑張ってほしいなと思います。
・内山トレーナー
(選手たちのどういったサポートをしているか)選手のコンディションの管理、特にリンク以外のトレーニングをしています。あとはリンクにつなげるためのトレーニングをやっています。あとは選手のけがなどの対応、マッサージとかですね。(けが人が多かった今シーズンについて)インカレ最後が本当に全員けがなく戦うことができた大会だったので。そういう意味ではシーズン通して苦しかったのかなとは思います。最後こうやってけがなく終えられたのは良かったです。(決勝戦はどのような気持ちで見守ったか)優勝はしてほしかったですけれど、全員悔いなく終わってくれたと思うので。最終的にけが人もなく終えられたので大会としては良かったかなと思います。(4年生への思い)鈴木監督体制になってから初めて鈴木監督がスカウトをし、僕も同じタイミングで入ったので、この4年生には前年とかよりも思い入れがあります。その分勝ってほしかったです。こういう形で負けてしまって悔しいですけど、トレーナーとしてはけがなくやってくれたので良かったと思います。(4年生へメッセージ)4年間お疲れさまでした。人生本当に長いのでいろいろあると思いますが、トレーニングも苦しかったと思うのでそういうことを次のステージにつなげてくれたらうれしいです。
・小林トレーナー
(決勝はどのような気持ちで見守っていたか)今日は勝つか負けるかわからないけれど、やることはやってきたのであとはもう自分たちの力を出すだけかなという感じで。いつも通りやってくださいという感じで見ていました。(4年生への思い)みんな個性が強い学年だったので(笑)、本人たちもまとまるのが大変だったかなと思ったんですが、最後のほうはお互い本当に仲がいいと言っていたので。そういう意味ではいい学年だったのではないかと感じています。(4年生へメッセージ)4年間本当にお疲れ様でしたというのはまず言いたい。あとはもう本当にホッケーしかやってこなかったと思うので、それ以外のことも大人になっていくうえでいろいろあると思うのでそこへ向かって目標を立てて活躍してくれればいいなと思います。
・原山マネジャー(法4=作新学院)
(最後のインカレを振り返って)準決の試合までは調子がみんな良くて、ベンチも声出てて、3ピリとかずっと声が出始めてから3点ぽんぽんぽんて返したりして、すごいやっぱり調子良いんだなって私の目から見ても分かるくらいだったけど、決勝は1ピリの1点目でちょっとしたミスから失点してしまって空気的にもみんなどんよりしてた感じはあって。すごい自分もいろんな空気を感じとって、今日はちょっと厳しいかなって、思ってたところで追加点入れられちゃって悪い方向にいってしまったかなって思う。でも今回インカレは準決の試合まではすごく私としても選手の笑顔を見れてうれしかったし、今日はすごい選手の悔しそうな顔を見ていたけど、これは結果が全てだなという感じではある。(1年間、マネジャーを一人でやってきて)何回辞めようと思ったか分からない(笑)。去年までは4人いたところを単純に仕事量が4倍になって大変だったのもあるし、おととしかな、もう一人いたマネジャーも辞めてしまったときもすごいつらかったし、いろいろあった4年間だったと思う。最後の年は自分の中でもどうやって仕事をこなすかとか成長した4年間だったなと思う。(プレーヤーが一人も欠けることなく4年間こられたことに関して)うれしいの一言。後輩とか辞めてしまった選手もいっぱいいて、最初から最後まで同期みんなで一緒にいられたのは良かったことだと思うし、最後チャッキー(坂本)はユニフォーム着て最後までというわけにはいかなかったけど、ベンチまでいけて、みんなで過ごした4年間だった。(4年生の仲が良いと聞くが)変に仲良すぎなくて。人数が多いいというのもあるけど群れたりはしない感じだけど、たまに同期会とかして。みんなお互いがお互いを意識して仲良くやっていた代だと思う。人数が多いなりに、全員が仲良く、団結力みたいなのもあったと思う。(同期の存在)いろいろあったのもあるので、同期のマネジャーが辞めたときくらいから関わりづらくはなったのかなとは思っていて、いろんな空気を感じとってた。別に仲が悪いとかではなくて、私がその辞めちゃったマネジャーとすごい仲が良くて。でもその同期としては辞めたいろんな要因とかが複雑だったのでちょっと戸惑いもあったなっていうのもあったので、私の中ではちょっと関わりにくいのかな、ちょっと壁ができたのかなって思ったこともあったけど、最後の最後には団結したので結果は良かった。最後には、マネジャーとして、同期としていろいろ受け入れてもらえたのかなと思う。(後輩たちへは)なんか母じゃないけど、母のような姉のような存在でありたいと思っていた。夏とかは小堀雄太郎が鎖骨折っちゃったときに病院に連れて行ったりとかそこから全部いろいろ、東京に帰るってなったときも荷物の準備手伝ったりとかしてて、いやもう母だなってすごい思ったりしたり。そこで仲良くなったりはした。あとは猪狩大智とか千葉拓也とかは事あるごとにちょっかいだしてきて(笑)。それはなんかお姉ちゃんみたいな感じかなって思います。(1番うれしかったこと)インカレの初日にみんなで誕生日を祝ってもらった。私の誕生日は2日前くらいだったけど、いつも合宿中に誕生日の子は食堂でお祝いをしたりする。電気消してみんなでハッピーバースデーって。今回、電気消されて。誕生日のFacebook更新するの忘れてたかなって、更新が遅れてたりはしてたけど、「あれ誰だっけ?誕生日だっけ?」ってリアルなトーンで隣の選手とかにどうしようって。「ごめん!誰の誕生日だっけ?」って言ってたらその選手も仲間だったみたいで「いや、ちょっと分かんないっす僕も」って言ってたら私の誕生日だったっていうのがあって。それがすごいうれしかった。(苦労、大変だったこと)ここ最近で大変だったのは1個上の4年生がみんな卒業して一人になったとき。仕事量も増えて追いつかなくなったり、なかなか学校もあったしバイトもすごくしてて。マネジャーは合宿費が実自費なので。なのでその合宿費を稼ごうと思ってすごい量のバイトとか入れてたりして。それを両立するのが大変だった。(大変なとき周りのサポートなどは)選手たちに「ありがとう」とか言われるので頑張ろうと思える。(ここまで続けてこられたのは)選手たちの笑顔を見たくて。(ホッケー部の存在は)私の大学4年間の全てです。(4年前、今の自分は想像できたか)続けられると思わなかった。続けてきたことで自分を褒めたいし、それは選手の支えもあったから。(4年間振り返って)ホッケー部で1番の思い出を作って、なんだかんだ夏も1ヶ月一緒にいたり、冬も2週間、3週間一緒にいたりして家族のような、家族の位置になれたのかなとか思ったりとか。はっきり言って家族より一緒に過ごしてる時間が長いんじゃないかなとか思うので。4年間自分頑張ったなってのと、選手たちに感謝したいなっていうのがある。ホッケー部のせいで涙腺弱くなりました。もらい泣きに弱くて。選手が泣いてるのもつらくて。うれし泣きだったり、悔し泣きの方がちょっと多かったかなと思うけど。(決勝も)ファインダー越しに選手の泣き顔とか。本当は撮りたくないけど、自分も泣きながら撮っていた。
選手を支える方々も一丸となってインカレを戦い抜いた
急なお願いにも関わらず、取材へのご協力ありがとうございました。来シーズンからもスポーツ東洋をよろしくお願い致します。
アイスホッケー班一同