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卒業企画7日目は水泳部主将を務めた髙橋明裕(営4=淑徳)。慣れない環境での練習や、周りとの差を実感した1年目、そして水泳人生が詰まったラスト50m。主将としてチームを導き、「やりきった」と笑顔で引退する高橋に水泳人生を振り返ってもらった。(聞き手=鈴木真央)
※剛毅とは…昨年度水泳部スローガン。「時には辛い時期や挫折しそうな時もあると思うが、折れずどんなに困難なことでも怯まずに取り組んでいこう」の意味が込められている。
水泳人生の集大成を飾ったラストレース
ーー水泳を始めたきっかけは
物心ついた時から始めてはいたんですけど、母が言うには「溺れている人がいた時に率先して助けに行ける人になってほしい」と泳げる子でいて欲しい思いがあったみたいです。これは後付けかもしれないんですけど、母方の家族がみんなやっていたのもあるからかもしれないです。競泳をちゃんと始めたきっかけは、小学1年生の頃までずっと区民プールで練習していて、区民大会で同級生の子に負けて、翌年は絶対勝ちたいと思って母が北島康介さんがいた東京スイミングセンターを探してくれて、小学2年生からちゃんと水泳を始めた感じです。
ーー大学まで水泳を続けた理由は
大学まで僕も(水泳を)やるとは思っていなかったんですけど、コロナもあって出し切れなかったなと思うところもあり、高校生の段階で大学は水泳で決めたい気持ちはありました。最後の最後に色々あって決断するのは結構大変だったんですけど、声をかけてくれた東洋大学で4年間頑張ろうと思いました。
ーー高校時代の思い出は
高校の時は部員が僕1人で、遠征でインターハイに行くとしても顧問と僕と母親の3人で試合に行く感じで、中高一貫校に通っていたので遠征に関しては6年間好き勝手にやらせてもらっていました。インターハイといっても3年間出場することはできても出ることが精一杯ではあったので、全国の舞台であまり結果が出せなかったのは悔しいところではあるんですけど、顧問の先生に言われたのは東京都の試合だったら、強豪の水泳部がいっぱいいるんですよ。その中で部員も1人なのにレースも1人でやっている姿を見て、1人でよく頑張っているなと話をしてくれて、それも励みになりつつ、高校3年間頑張れたかなと思います。
主将として仲間を送り出す
ーー大学に入ってから1番思い出に残っているレースは
思い出に残っているのは最後のレース(日本学生選手権、以下インカレ)です。なんとも言えないというか、あんなにみんなに送り出してもらったレースはなかったですね。部員もそうですけど、クラブチームでお世話になった先生方だったり色んな人が最後のレースを送り出してもらいました。あんなレースは僕の水泳人生になくて、高校時代1人だったこともあって、クラブチームでもあれほど全員が応援してくれたレースはないなと思いました。あとインカレの予選を泳ぐ時は2年間ずっと外側だったんですけど、最後の年はセンターレーンで最高でした。
ーーラストレースを終えた時の心境は
「やりきった」という気持ちが1番で、最初にプールに一礼して次に観客席、応援席の順で礼をしていっていつもと同じ礼で、礼をしている時はありがとうございましたとしか思ってなかったんですけど、歩いて控えの方に戻る時に「本当に終わったんだな」と全部思い出した感じがあって、保護者の応援席の最前列に自分の親を見つけて10年ぐらいやってた水泳が「終わったんだな」と感極まったところでした。
ラストレース後、観客席に一礼する髙橋
ーー卒業後は競技を続けようと考えなかったか
大学水泳でやりきろうと思っていたので社会人になるとお給料もらいながら練習するわけで、お金をもらってまで水泳をやる競技成績もなければ自信もなかったので、学生の間だけと割り切って続けるつもりは最初からなかったです。
ーー主将に選ばれた理由は
代々主将は1個上の先輩方が名前を挙げて平井監督に通して決まる形なんですけど、平井監督から言われたのは選手が引っ張っていくチームであって欲しいとのことだったので、自分で言うのもちょっとおこがましいんですけど、競技面と生活面を考慮し監督との信頼面も踏まえて僕が1番大きかったかなと思います。
ーー来年度に坊岡優眞(済3=市立太田)選手を主将に選んだ決め手は
競技力が長けているだけでなく、監督と話していくうちに、競技面においても人間性においてももう一段階成長して欲しいということで、まだ人として完璧な状態ではないと思うんですけど、彼を置くことによってチームにいい影響が出ることも含めて最終決定を監督と決めました。
ーー大学に入ってから1番大変だったことは
環境の変化が1番大きかったです。クラブチームでしか練習していなくて、中学生の時から一緒のコーチにどんな選手か分かった上で怠けた練習をしていたわけで、それが大学じゃ絶対にできないので、みんなで一致団結して向かっていくところが個人競技でありながら、チーム競技みたいな面があって、そこのギャップが1年目は苦しくて、先輩にもいっぱい相談した覚えもありますし、たくさん怒られた覚えもありますし。各学年ごと種類が違うきつさがあった感じですね。
ーー環境の変化から高校と大学で自分の考えなどで変わったことは
大人になりました。高校は本当に気持ちがめちゃくちゃ強くて、負け知らずというかオレオレというか、かなり痛く感じるかもしれないんですけど高校時代は自信しかなくて、大学に入ったらみんなトップレベルなので「あれ?」みたいな、劣っているな自分って。そこから自分の主張することも大事なんですけど、人のアドバイスなどをちゃんと聞き入れることを競技面においては大切にしようと切り替えました。成長したのは人間性の方で、今年は主将で去年は寮長をやっていて役職のこともありもっとちゃんとしなきゃという責任感と自分がどういう方向に進んでいかないといけないのか、チームの導き方をすごく考えるようになって、それのおかげで目上の人と話すことの大切さだったり、伝えることの難しさなども学べましたし、水泳面以外での成長が大きかった4年間かなと思います。
仲間と笑顔を見せる1枚
ーー自信がなくなった1年目の立ち直り方は
とにかく先輩方が話を聞いてくださって、本当は同期から相談した方が良いんですけど同期に相談するのは最終手段で、ミーティングで固く僕が辞めないためにみんながいっぱい喋ってくれるんですけど、それが嫌で。僕は年上の人と絡むのが得意で先輩にたくさん甘えて相談にも乗ってもらっていっぱい話を聞いてもらっていました。1年目はとにかくベストタイムが出なくてずっと苦しかったです。クラブチームだったら月に1、2回は試合があるんですけど、大学に入ると年に10試合ぐらい、月に2回あると多いぐらいの試合数の代わりに練習量が増えるんですよ。自分はレースをこなしてタイムを出してくタイプだったので大学の授業もあり、「環境に慣れろ」という言葉をかけていただいて、その言葉を信じて1年目は土台作りをしていた感じです。
ーー平井監督からの印象に残っていることは
よく仰っている言葉で「自分から水泳という競技を抜いた時に何が残るか考えろ」っていつも言ってくださって、社会に出た時「22秒で50m自由形を泳げます!」と言っても「へー」で終わることにそれが一般論だよと教えてくれました。「水泳の監督ですよね」という発言であるとは思うんですけど、そういう考え方を持たせてくださる方で「自分から水泳を抜いた時に何が残るんだろう」と考えて全部員が共通認識を持っているぐらい口酸っぱく指導してもらって、その言葉は本当に印象に残っています。
ーー水泳人生を振り返ってみて
順風満帆とはいかない水泳人生できついことの方が多かったですが、人の巡り合わせや出会いは恵まれていたなと思います。1番近くで支えてくれていたのは両親ですし、何を言っても「分かった」の一つ返事で物事を進ませてくれて感謝したいです。平井監督との出会いも水泳人生で大きなターニングポイントだと思っていて、大学生活で人間面において成長できると思っていなくて、競技を伸ばすために入ったつもりでいたので他大だったら部活で固まっているのがまずめずらしい環境ですし、先生方も親しみやすくフレンドリーなところは東洋しかないと思うので巡り合わせの良さが1番本当に良かったなと思います。
ーー後輩たちに向けて
レベルが高い選手が多くて、どの学年にも速い選手がいるので男子に関してはインカレの成績の心配はないです。僕らが萩野公介(H29年度文卒)さんの代の総合順位5位が歴代最高順位だったんですけど、タイで終えられて、今年は3位を狙うと聞いたのでどんどん上を目指していく強い東洋がまた復活されるのかなと楽しみもあり、心配はまったくしていないです。
今年のインカレでの集合写真(本人提供)
TEXT=鈴木真央/PHOTO=森花菜、鈴木真央