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甘いマスクに輝く笑顔が特徴で、「吉田スマイル」のニックネームを持つことで知られている吉田周(総4=広島国際学院)。
東洋大学で過ごした4年間を表す言葉に選んだのは「想」。強い気持ちを持ってどんな困難も乗り越え、成長を遂げてきた。吉田が過ごしてきた東洋大学での競技生活をたどる。
箱根駅伝壮行会時、笑顔でマイクを握る吉田
陸上を始めたきっかけは”姉”
吉田が陸上競技の道を歩み始めたのは中学1年生の頃。「小学生の時に、中学から陸上をやっていた2つ上の姉の地区大会などを見に行って興味を持った」。姉の頑張る姿を見て、自然と自分も挑戦してみたくなった。
東洋大学進学への決め手となったのは「OBの相澤晃さんにあこがれたこと」。入学前の部の印象は「雰囲気は分からなかった」というが、あこがれのランナーを追いかけて鉄紺の世界に飛び込んだ。
転機となったのは非公認レース
入学時は5000㍍で学年6番手のタイムだった吉田。「まずは練習をしっかり積んで、駅伝メンバーに絡むこと」を目標に大学での競技生活に臨んだ。
地道に練習を積んでいた吉田だが、ターニングポイントは早くもルーキーイヤーで迎える。
「コロナで記録会などがあまりできなかったので非公認ではありますが、ハーフマラソンを走った時に自分が思ったよりも走ることができました」。
このレースにより箱根駅伝のメンバーに名を連ね、「大学に入ってから(自分が)変わった分岐点だった」と自身も当時を振り返る。
箱根駅伝での出走はできなかったものの、メンバーに選ばれたことから吉田の陸上人生は大きく好天していった。
競技の厳しさを知った全日本大学駅伝
着実に実力をつけていった吉田は、3年時に10000㍍、ハーフマラソンで自己ベストを更新。箱根駅伝では9区を走り、区間2位の好走でチームの柱に。最終学年に上がると副主将に任命された。
しかし、好調の吉田を悩ませた時期も。"故障の繰り返し"だった。
「3、 4か月くらい故障があって、 一応復帰はしましたが、 その後も故障などを繰り返していました」
万全な状態に持ち込めない中、突入した駅伝シーズン。そこで苦戦したのが、自身が4年間で最も思い出に残ってる大会だと語る全日本大学駅伝だ。
「あまり状況は整っていなかった」という中、エース級の選手が集う2区での起用。結果は区間14位と苦戦したが、「他大学のエース級の同期たちと走ることが今までなかったので、走ってみて差を感じることができた」。競技の厳しさを知ると同時に、今の自分がいる位置を確かめることもできた。
区間14位でタスキを渡す吉田(右)
最後の箱根駅伝、4年生として果たした責任
「今年はダメかな」。
調子はなかなか上がらず、あきらめかけていた。しかし、吉田には特有の自信と言えばいいのか、ある体質があるという。
「毎年11月くらいになると体が勝手に動いて状態が上がってくるので、そこに懸けていた」
この吉田の自信は的中し、11月24日の小江戸川越ハーフでは62分台で2連覇。だんだんと状態は上がり、12月29日に発表された箱根駅伝の区間オーダーで9区に登録された。
小江戸川越ハーフで2連覇を果たした吉田
そして迎えた最後の箱根駅伝。
「チームとして最後のレース、悔いの残らないように」。そう思いながら中継所に立った。
昨年は笑顔でこの区間を駆け抜けてたが、今年は苦しい23.1㌔だった。
だれよりも険しい表情をしていた吉田。給水での声掛けは「きつくて、今は思い出せない」というほどの苦しさだったと振り返る。
一時はシード争いから後れを取った時もあった。それでも、前の背中を追うことを諦めなかったのは「後輩の負担にならないように」という思い。
チームメートからの給水や、ラスト3㌔での監督の声掛けに背中を押され、終盤で巻き返し8位で中継所へ。鉄紺らしい、執念の走りだった。
苦しい中でも"吉田スマイル"を見せた
成長の4年間、「ここでよかった」
東洋大での競技生活は”成長”の4年間だった。
培ったものは競技での実力だけでなく、「人間性を一番育てていただいた」。吉田にとって、東洋大学陸上競技部は特別な環境であり、「いい仲間にも出会えた」最高の場所。思うようにいかないこともあったが、「ここ(東洋大)でよかった」。晴れやかな表情で言葉を紡ぐ。
箱根駅伝壮行会の様子
「駅伝で区間賞を取りたかった」。
思い残したことを問うと吉田はそう答えたが、最後の箱根駅伝で見せた激走は、記録よりも記憶に残る。そんな走りだったと伝えたい。
4月からは地元・広島の中電工で現役を続行する吉田。新たなステージでも、”吉田スマイル”を絶やさずに、彼の情熱と努力は続いていく。
TEXT=北川未藍