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小学校時代に少年野球チームでプレーする原(ご家族より写真提供)
ヤクルトから1位指名を受け、プロ入りの夢をかなえた原樹理(営4=東洋大姫路)。晴れの門出を迎えたこの日、兵庫県加古川市で暮らす父・敏行さん、母・美幸さん、長男・玲奈さんが秘話を明かした。
1993年7月19日、兵庫県加古川市で3300グラムの元気な赤ちゃんが生まれた。「3000グラムないかもしれないと言われていたので、少し不安だった」という母・美幸さんを安心させる産声。男3兄弟の三男坊は、「理性があって、樹木のように生い茂る子に」という願いを込めて『樹理』と名付けられた。
とにかく活発な子だった。「毎日園庭で遊んで、ポケットには泥団子が入っていた」と美幸さん。当時はサッカーが得意で、そのままサッカー選手になるんじゃないかと思ったほど。兄・玲奈さんが述懐する。「とにかく足が速かった。(幼稚園)年長のときはリレーのアンカーでした。樹理のチームは1位からだいぶ離れていたんですが、ごぼう抜きして優勝したんです」。チームを勝たせたい、その思いはすでに根付いていたようだ。「負けず嫌いでしたね。テレビゲームをしていても、負けると怒るんです」。
野球を始めたのは――。正確には分からない。というのも、次男とは5つ、長男とは7つ、歳の離れたお兄さんたちとその友達に混じって、幼少期から自然と野球をしていた。兄2人の背中を追って、小学校に入ると同時にソフトボールを始める。しかし、11月に幼稚園の先生がコーチをしていた高砂市の少年野球チーム「TAKASHO」に入団。そこから野球一本の生活が始まった。父・敏行さんは大学で声楽を教えていた音楽家だが、「男性音楽家の世界は厳しいので」と音楽への道は考えなかった。毎週末は朝から日没まで野球漬け。4年生になる頃には、上級生に混じってAチームでプレーした。それまではキャッチボールの相手をしていた敏行さんも捕れなくなるほど、球は速くなっていた。
中学校の軟式野球部でもエースとして活躍。同じ小学校出身のチームメイトも多く、今でも仲が良い。年に数回の帰省の際も、「ずっと遊びに行っちゃって」と敏行さんが寂しがるくらい人気者だ。一方で、早くからチームを背負ったこともあり、責任感の強さは並々ならぬものだった。県大会で敗れたとき、先発した原は号泣した。それも、一人で端の方へ行って、誰も寄せ付けなかったという。美幸さんは説明する。「小学生の頃から、大事な試合で負けると泣いていました。勝ちたいという思いが相当強かったんだと思います」。
「負けず嫌い」「責任感」現在の原を形成するキーワードは、すでにこの幼少期から培われていた。
■祝福コメント
・父敏行さん
おかげさまで本人の希望が叶い、喜んでいます。家で長男とテレビで見ていたのですが、我々の予想もしていなかった順位だったので、狂喜していました。これからが大事です。まだ入口に立っただけで、これから出世していかないと。自分の考えた通りに練習をして、しっかり戦力として戦ってほしい。
・母美幸さん
行かなかったら後悔すると思って、昼前に加古川を出てきました。緊張しましたね。1位では絶対にない、どこかに指名していただければそれでいいと思っていたので、驚きしかないです。最初は顔もこわばっていましたが、みんなといるときは一番楽しそうでした。夢が叶って本当に良かった。途中で辞めなくて、本当に良かった。監督にも友達にもみんなに支えられてここまできた。だからとにかくみんなへの感謝の気持ちは忘れないでやっていってほしい。体も大きくなって、もう高校のときのようにマッサージをしたら手が痛くなるんでしょうね。頑張れしか言えないです。ちょっと遠いけれど、応援にも来たいですね。
母・美幸さんと息子・樹理