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ヤクルトから1位指名を受け、プロ入りの夢をかなえた原樹理(営4=東洋大姫路)。晴れの門出を迎えたこの日、成長を近くで見守ってきた野球人たちが秘話とともに祝福のメッセージを寄せた。
「TOYO」を背負って7年目の原・後藤田バッテリー
東洋大姫路高時代から7年間、バッテリーを組んだ。後藤田将矢捕手(営4=東洋大姫路)が最初に原の存在を知ったのは小学生のとき。県大会で優勝した後藤田は、その大会では登板のなかった原という好投手がいると聞いていた。中学はボーイズでプレーし全く接点はなかったが、高校で初めてチームメイトに。「最初のキャッチボールからとにかくフォームがきれいだった」。読み通り、原は1年夏からメンバー入りし新チームからはエースになった。
忘れられない試合がある。1年秋の県大会準決勝。強豪・神戸国際大付のエース岡本健(現ソフトバンク)と延長15回を投げ合いサヨナラ負けを喫した。このとき当時の堀口雅司監督は原の将来を危惧し、途中で代えたかったという。だが、「あれだけ楽しそうに投げているのを見て、代えることはできなかった」。後藤田は語る。「明石球場で、緊張もする中で投手として最も大事な経験ができていた。あいつが一番成長した試合じゃないかな」。
忘れられない思い出がもうひとつ。3年春に名将・藤田明彦監督が復帰した。「兵庫では名が知れてきた原に対しても厳しかったですね」。ヒジが下がり気味だったフォームを矯正するために、藤田監督は当時最大の武器だったスライダーを禁じた。しかし、「あいつも打たれるの嫌やから無視して投げてくるんですよ。その度におれが怒られる」。〝恋女房〟として必死になだめながら、なんとか6月の解禁日を迎えた。すると真っ直ぐの威力は格段に増し、スライダーはバットに当たらなかった。「一番変わったと思います」。原の成長は、後藤田の楽しみだったのかもしれない。
甲子園1回戦に勝利し校歌を歌う。左から中河主将、原、後藤田(写真提供:ホームラン)
高校時代の恩師・藤田監督(写真提供:ホームラン)
その藤田監督。東洋大姫路を5度の甲子園出場に導き、夏の甲子園では解説者としても招かれるカリスマ監督だ。「一目見て、マウンドでの立ち姿がまず美しい。今まで見てきた投手の中でも一番きれいだった」。左右は違えど、乾真大(H22年度営卒=日本ハム)や松葉貴大(大体大→オリックス)などプロ野球にも選手を輩出してきた藤田監督だったが、原の存在はそれだけ際立っていた。「やっぱりアウトローへのコントロールが良い。だから長打を打たれないんですよ」。
そんな藤田監督が原に求めるもの。「日本のエースになってほしい。150キロのストレートはなくても、球のキレとコントロールをどんどん磨いていけば十分勝負できる」。人生の壁をひとつ越えた教え子に、次なる課題を用意した。
■祝福コメント
・藤田明彦監督(東洋大姫路高)
まさか1位とは思わなかったですね。私は当然グラウンドで練習していましたから、たくさん携帯が鳴ったので指名されたんだとわかりました。会見直後に本人から「ありがとうございました」と電話がきた。うれしい思いと、ホッとした思い。高校時代に「うん」と言えば間違いなくドラフトにかかっていた。ただ、荒っぽい性格で人間を鍛えるためにも少し無理に大学進学させたところもあったので。とにかくかかって安心している。高校を卒業するときにも日本のエースになれと言って送り出した。今も同じです。まだ土俵に乗っただけ。これからが本番なので、頑張ってほしい。
・後藤田(営4=東洋大姫路)
びっくりした。1位はないな、と気を抜いていたら指名されて。指名されるというのは分かっていたから、あとは順位だったけど。すごいね。高校のときもプロには行けたと思う。でも大学来てからは、調子が悪かったり、けがとかいろいろあって、いけないかなと思っていた。4年生になってから「キャッチャーは後藤田がいい」ってずっと言ってくれた。その期待に応えないといけないとやってきた。自分がキャッチャーとして組んだからかはわからないが、4年生になってからは勝利数も増え、防御率も良くなった。7年目ということであいつにとっては投げやすさを感じるのかなと。誇れる。バッテリー組むのもあとは入れ替え戦だけ。思い残すことがないように。まだ自分たちの野球人生は終わってない。入れ替え戦で勝つことだけを考えてやっていきたい。今まで通りやってくれれば、自分が何とかするだけ。彼にとってプロに入ることが最後の目標ではないと思うし、活躍することがみんなの望んでいること。今まではライバルはそんなにいなかったけど、これからは自分より上の人、技術を持った人がたくさんいる。心折れることなく、自分の目標を明確に持って、やっていってほしい。