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鉄紺の先頭に立ち、世界へ駆けた4年間だった。
100mを専門とする栁田と400mHで戦う小川。
大学生活を駆け抜けた2人に、これまでの日々を振り返ってもらった。前半では、お互いの印象からともに挑んだ世界大会の思い出まで。当時のエピソードや心境をお届けする。(聞き手=近藤結希、取材日=1月21日)

ーお互いの印象ー
ーーまずは、お互いの印象を教えてください
栁田 ひと言で言えば「勝負強い男」。練習以外のところで関わる機会もありますけど、本当にやるときはやる男だなと思います。
小川 大事なところでやらかすっちゃやらかすことも多いけど、「やっぱり栁田だ」って世間を思わせるくらいの強さを持っていると思うので、一番信頼できるというか…。「一番速いのは栁田だ」って世間に印象づいているのがすごいところです。
ーー入学前から栁田選手は注目を集めていましたが、入学当初はいかがでしたか
小川 入学してきたときは…本当に天狗すぎて(笑)。でもインターハイも勝って、“次世代エース”と注目されながら、そういうプレッシャーがある中でもこうやってトップで戦い続けているのはすごいところかなと思います。
ーー逆に栁田選手から見て、小川選手の印象は変わりましたか
栁田 そもそも1年目は寮が違ったので、一緒にどこかに遊びに行くとかいう機会も多くはなかったんですけど。寮が一緒になったり、オフシーズンになったりとかで、いろんなところに遊びに行ったりする機会が増える中で、結構ねじの外れたやつなんだなと(笑)
陸上以外の部分も知れたことで、より同期としてもっと頑張りたいなと思うようになりましたし、小川に限った話ではないですが、同期みんなでいけるところまで上を目指したいなと思うようになりました。
ー入学の決め手ー
ーーお2人が東洋大を選んだ理由をお伺いしたいです
小川 自分は、同じ高校の先輩の吉津拓歩さん(R3年度ラ卒=ミキハウス)が東洋のマイルでずっと活躍されてて、それに憧れていたというのが一番です。400mHをやるにもまずは400mの走力がないと話にならないのかなと思っていたので、400mが強い東洋に入ればなんとかなるんじゃないかなと思って東洋を選びました。
ーー実際に憧れていたマイルでもご活躍されました
小川 初めて鉄紺のユニフォームを着たときは、すごいワクワクしたというか。やっと自分が鉄紺を着てるという驚きもありました。チームの全員が強いのですごく頼もしかったですし、マイルを走ったら絶対勝たないといけないなというプレッシャーもありましたが、毎回楽しんで走ることができたかなと思います。

日本インカレでは、2度の優勝に貢献した。(写真右)
ーー栁田選手はいかがですか
栁田 僕は高校2年の3月に、当時沖縄でやっていた合宿に参加させてもらって。土江先生に「これで東洋の雰囲気はわかったと思うから、他のところも見に行ったりして、それでも東洋に来たいと思ったらおいで」という風なことを言ってもらってということがありました。
実際それから他の大学を見に行くことは一切せずに、そのときからずっと「東洋なのかな」ということを漠然と考えていて、気がついたら東洋大学にいてという感じで。あまり「東洋にしよう」と決心したというようなことはなかったのかなと思います。
ーー漠然と「東洋なのかな」という風に感じたのはどういったところからでしたか
栁田 他の大学と比べるわけではないですけど、高校3年間陸上をやってきて、東洋大学にいたら速くなれるんじゃないかというフィーリングがありました。
ー印象深いレースー
ーー実際に入学されてから、4年間の中で1番思い出に残っていることありますか。
栁田 今年の岡山インカレのマイルの決勝が、なんだかんだで一番印象に残っているのかなと思います。理由は話せば長くなってしまうんですけど…。
アンカーの廿浦とは同期でずっとやってきて、けがもあったりでうまくいかない部分を同期全員が見てきている中で、最後彼がアンカーでゴールして。なおかつ4年間、ずっと「絶対に出る」って言われてきた学生記録が(今までは)出ていなかった中で、廿浦がアンカーでゴールしてその学生記録が出たっていうのはスタンドで見ていて本当にうれしかったです。
それだけじゃないですけど、あの瞬間が「東洋で陸上やってきてよかったな」って思えた瞬間でした。
ーー「自分の走ったレース以外で初めて泣いた」という風におっしゃっている記事も拝見しました
栁田 今年は日程がだいぶイレギュラーで、日本インカレもだいぶ早い時期にありましたけど、それでも4年目に主将をやらせてもらって。4年間出るって言われ続けて出せなかった学生記録を自分たちが最高学年の時に更新できたというのは、僕は走っていないですしマイルを走ろうと思ったことすらないんですけど、ぐっとくる部分があったかなと思います。
ーー自分のレースよりも仲間の走りが思い出に残っているんですね
栁田 そうですね。実際、自分のレースでも「あのレース良かったな」とか思うことはあるんですけど、それ以上に。誰かのレースを見て涙が出たのは本当に初めてだったので、それくらい印象的なレースだったんじゃないかなと思います。

客席から声援を送った
ーーありがとうございます。小川選手はいかがですか
小川 自分以外のレースだったら自分もその岡山のマイル…。
栁田 あ、やっぱり?いた!?(笑)
小川 いたよ!隣で見てた(笑)
栁田 あ、いたわ(笑)え、走ってないんだっけ?
小川 走ってないよ。俺走んなかったけど、学生新出されて悔しいとか思ったけど…。やっぱりそれ以上に同期の廿浦が3年間ずっと寮も一緒で、ずっと一緒に生活してきて、なんでこんなに真面目なのに伸びないのかなって。ずっと悩みを聞いていて、「こうすればいいんじゃない?」とか毎日のように話してて。その同期が最後学生新でゴールした時は、本当に「よかったな」って。自分は悔しいはずなのに、それ以上にうれしかったっていうのが一番です。
自分のレースだったら、大2の学生個人。初めて日本一になった試合です。中学生の時から日本一になりたいと思い続けてた夢がやっとかなったレースでした。それがきっかけで自信がついて、調子も上がって。その年は全部勝ったのかな?そのくらい思い出があります。
ーーターニングポイントのようなものですか
そうですね、それがきっかけで、そこからは自分が勝たないといけないという気持ちになれたのかなと思います。

学生個人選手権では2度の優勝を果たした
ーー栁田選手は個人のレースで思い出に残っていることはありますか
栁田 やっぱり大学3年の日本インカレじゃないですか。その年、なぜかシーズンイン一発目のレースが一番いいタイムで結局終わっちゃったんですけど。そこからなぜか調子がいまひとつ上がりきらなくて、結局五輪では100mは出られなかったし、リレーも決勝は走れなかったしで踏んだり蹴ったりの年でした。
五輪が終わって、日本に帰ってきてから1ケ月くらい空いた日本インカレに出て終わりにしようってなっていたんですが、その日本インカレもなかなか思うように体が動かず。それがなんなのかっていうのはいまだによくわかっていないんですけど、100mも決勝には進んでいるけど、あの時会場で見てた人の99%が今回は栁田じゃないやつが勝つんだろうなって思っていたと思うんです。土江先生も「勝てないと思ってた」って後から言ってたくらいなので。そんな中で決勝の前になったらなぜか急にスイッチが入って、その年ずっとうまくはまらなかった走りが、最後の最後にうまくはまって優勝できたレースでした。自分ではあとから「死んだふり作戦」って言ってるんですけど(笑)。
火事場の馬鹿力みたいなのが湧き上がってきて急にスイッチが入ったようなレースだったので、自己ベストだったとかいうわけではないんですけど、それが印象に残っているかなと思います。

日本インカレで優勝を果たした
ーともに挑んできた世界大会ー
ーーお2人は4年間で多くの国際大会にも出場されていますが、環境面などで1番大変だった大会はありますか。
小川 コロンビア?
栁田 だよね、めっちゃ思った。
小川 U20の世界選手権で、コロンビアに舘野峻輝(ラ4=中京大中京 )と3人で行って。マイルが最終日の最後のレースだったんですが、走る前にコロナの検査をしたんです。自分が元気だったから走って、みんなで「6位かぁ」って感じでミックスゾーンを出たら自分だけつまみ出されて、「コロナ陽性だった」って。朝の検査で陽性だったんです。その前に舘野が陽性になっていたので、自分と舘野でコロンビアで1週間を過ごして…。
栁田 めっちゃおもろかったんだよ、笑っちゃいけないけど。
小川 日本選手団みんなでいるのに
栁田 そうそう、みんなでいて、マイルが最後だからみんなで応援してるんですよ。写真もみんなで撮って、「じゃあ帰ろう」ってなってバス向かってたら、俺しかいないんです。東洋3人来てるのに。「あれ、外いる?」って思ってみてたらラインきて、「俺コロナ」みたいな。
小川 あのときほんとに厳しかったから、陰性になるまで日本に帰ってこれなくて。舘野が途中で陰性になって帰ったから、コロンビアのホテルに1人で熱40度くらい出て。
栁田 俺が帰ってから1週間後もまだいましたからね。地球の裏側でした。
小川 帰るのに40時間かかるから、本当に早く帰りたかった…それが一番。
ーー栁田選手は大丈夫だったんですね
栁田 俺はそれこそ舘野と一緒の部屋だったんですよ。で、着いて2日目くらいの朝にドクターが急に入ってきて、「舘野くんコロナだったから一応君も検査ね」って。あわてて洗面所行って、鼻うがいして。「何が何でも俺は絶対にならない!」ってしのいでましたね。僕は無傷で帰ってきました(笑)。
小川 本当にかかんなかったよね、ずっと一緒にいたのに。
栁田 なぜかかかんなかった。行動をともにしてたはずですし、寮内でコロナがはやったときもなぜか僕だけならなくて。
ーー過酷な大会だったんですね。
栁田 そうでしたね、あれは
小川 一番きつかったかも
ーー国が違うとやっぱり大変なことも多かったですか。
栁田 うん、あとコロンビア英語通じなかったよね。
小川 あー、通じなかったね。
栁田 英語って世界共通語じゃないの?ってそのときは思ってたので、英語しゃべったら「何言ってるの?」って感じの反応をされて。それもちょっと戸惑ったりとかはありましたね。
ーーそういった中で、お互いがいるというのは心強かったですか?
小川 東洋から3人で行っていたのは心強かったですね、だいぶ。
ーーそのあとの世界陸上や五輪も一緒でした
小川 確かに、パリ五輪行った時もずっと同じ部屋だったし、心強さはありました。
栁田 あった?よかった、勝手に俺が安心してただけじゃなかった。
小川 彼、自虐ばっかりなんで(笑)。
ーーパリでの思い出などはありますか?
栁田 パリかぁ、時計盗まれた。パリの思い出が全部それで塗り替えられてる(笑)。
小川 パリで喧嘩したよね。
栁田 あぁ、したな!めっちゃしょうもないことで。昼に喧嘩してその日の夜には仲直りした。
小川 自分がジョセフさんに「パン屋さんに行こう」って言われて。2人で行きたいって感じだったから、同じ部屋だったので一応栁田に言っとくかって思って「今からジョセフさんにパン屋行こうって誘われたから行ってくるね」って言ったら、「え、俺は?」って。
栁田 寂しかったー。
小川 俺はジョセフさんに誘われた側だから「ジョセフさんが『2人で行きたい』って言ってたから俺からは何にも言えないわ」って言って、時間だったからジョセフさんを待たせちゃうと思って急いで行ったんですよ。そしたらその後ラインで言い合いになって。
栁田 冷戦だったよね。
ーー誘ってほしかった?
栁田 誘ってほしかったっていうより、一人にしないでって感じでした(笑)
小川 そんなしょうもないけんかもしました(笑)試合一週間前くらいに。
栁田 したなー。
ーーでもすぐ仲直りできたんですね。
小川 その日の夜に。
栁田 夜には普通にしゃべってましたよ(笑)。

ともに日本代表として戦ってきた。
(写真=本人提供)

