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初めまして、文学部日本文学文化学科1年生の外狩春佳です。「外狩」で「とがり」、と読みます。担当部会はアイスホッケー、バスケットボール、アーチェリー、少林寺拳法を取材させていただいています。以後よろしくお願いいたします!
コラムの担当日が発表されてから早数ヶ月。何についてお話したらいいだろうかと思いながら当日になってしまいました。折角なのでこれを機に私が度々考えていたことと向かい合おうと思います。
私はお恥ずかしながら文学部日本文学文化学科に籍を置き、またスポトウに所属していながら恐ろしく語彙力がありません。日常「やばい」、「厳しい」、「すごい」、大抵これで生きていると言っても過言ではないと思います。これはゆゆしき事態です。もっと精進せねば、と思う一方でふと考えることがあります。
それは何かの折に感じた大きな感情は、文字に起こしたら薄れてしまうのではないかといったものでした。
例えば何か素敵な作品を目にしたとして、どうにかこの感動を伝えたいと思って作り手に感想を送ろうとするとします。激情のままに書き表したならきっと無礼な物言いになってしまったり、「うまく言えないけれどとにかくとっても素敵でした!!」という小学生のほうがもっとまともな感想文が書けるだろうとつっこみたくなるようなものになったりするでしょう。そこで私はいつも、もっと具体的に、失礼でないように、しっかり感動を伝えるべく、作品をじっくりと見返します。絵ならば構図や線のタッチ、色彩。文章なら文体や表現、筆致。彫刻なんかの立体作品ならあちこちからためつすがめつするでしょう。でもそこではたと思うのです。「これって国語のテストと同じじゃないか?」
そうなんです。隈なくまるで答えを探しているような、そんな感覚にまさに陥っていたんです。秩序立てて分析して、「ここがこうだから素敵なんだ」、「この表現はこういう意図があるんだろうな」、なんて知った風に解釈して書き起こした感想は、純なものではないように思いました。発現した気持ちに後で理由をこじつけたような気持ち悪さがあり、それなら最初の酷く拙くて簡潔につづられたものの方が余程純粋で上等なものだったように思います。鋭利でまっすぐだった素直な感情が、色々な言葉をまとって整形されて、鈍くなる。どんなにたくさんの言葉を尽くしたとて、いえ、むしろ尽くせば尽くすほどに白々しく、最初に覚えた感動とは遠ざかるように感じました。ひょっとしたら私がひねているだけかもしれません。けれど以来私はそんな感覚をずっと覚えています。
一体どうしたら強く揺さぶられるような情動を伝えられるのでしょうか。未だその方法は見つけられていません。私の文章力がもっと向上したらいいのかもしれませんし、なんだったら最初にパッ、と思いついたようにつづればいいだけなのかもしれません。そもそも私の人間性が駄目なのでどうにもならないのかもしれません。いかんせん否定しがたい。けれど伝え方がわからない私は今、何の因果かスポトウに居ます。取材をして、それを人に伝えることのお手伝いをしています。目の前で試合を観た人が記事を読んで思い出すような、観ていない人が読んで試合の光景を思い浮かべられるような、そんな記事が書けるようになりたいです。書けるでしょうか。書かなくっちゃ。精進あるのみです。まずは早く書く練習からですね(笑)いつもご迷惑おかけしております。
長々と詮のないお話失礼いたしました。もっときらきら女子大生!夢と希望いっぱい!みたいな文章が書きたいです…。次までに面白い話を仕入れておきます。読んでくださり有難う御座います!